愛宕橋を渡ると  【連載レポート】強制不妊(1)

  • facebook
  • twitter
  • はてなブックマーク

広瀬川にかかる夕暮れの愛宕橋=2017年10月18日午後4時30分、仙台市若林区土樋 (C)Waseda Chronicle

仙台市に住む飯塚淳子(71)は55年前の16歳のとき、何の説明も受けないまま不妊手術をされた。

今は市営住宅の5階の2LDKでひとり暮らす。寝室には茶色のダンボール箱が2箱あり、その中には強制不妊手術に関する資料がぎっしりと入っていた。取材で訪れたとき、彼女はダンボール箱を、ズズズッ、ズズズッと音を立て、ひきずりながら居間に持ってきた。中を見せてくれた。「大事なやつはこれ」。2017年8月30日夕のことだ。

段ボールの中身は書類がほとんどだった。情報公開で開示された資料、行政との交渉記録、支援団体の機関誌、関連の新聞記事の切り抜き、ファックスや手紙……。

2冊のファイルの中に、B5判のレポート用紙にボールペンで書いた12枚のメモがあった。記憶を頼りに書きつづった半生の記録だ。

「いったい自分が何をされたのか、知りたかった。忘れないために書いてきた」(*1)

65歳を過ぎたころから病気がちになり、日毎に身体がいうことをきかなくなっている。喘息も患っている。市営住宅にエレベーターはない。手すりをつたいながら息を切らせて5階まで上がる。朝は早く起きるが、身体がだるくてなかなか布団から出られない。

69歳のときに乳がんを患った。治療のため抗がん剤を投与したときには髪の毛が抜けた。いつ死ぬかわからないという不安がつきまとう。不安を上回る悔しさが淳子に生きる理由を与えている。

「あの日から人生をめちゃくちゃにされた。このまま死ぬのは悔しい」(*2)

レポート用紙に書き連ねた半生の記録には<あの日>の出来事が書かれていた。

1961年、<あの日>の2年前。東京オリンピック(*3)に向けて、日本中が活気づいていた年だ。仙台からは淳子と同じ年頃の「金の卵」たちが集団就職で上野に向かった(*4)。

だが淳子はオリンピックや集団就職どころでなかった。この年、淳子は仙台市内の家に住み込みで働きに入ることになった。

もともと、淳子は石巻市に近い小さな村で生まれた。中学3年になる春に、家庭が貧しいなどの事情があって仙台市内の施設に入れられた。ところが、住み込みで働くことが決まり、その施設を出た。淳子が15歳のときだった。

住み込み先は、仙台市で不動産会社を営む家庭だった(*5)。仕事は食事の支度や掃除。要するに住み込みのお手伝いさんだ。

その家には3人の子どもがいた。淳子と同い年の長女は洋服でおしゃれをしていた。淳子はモンペ姿で働いた。奥さんは機嫌が悪いと、淳子に当たった(*6)。「他人の子だから憎たらしいね」と淳子の背中に馬乗りになり、ほうきで尻を叩いたこともあった(*7)。

2年が経とうとしていた(*8)。<あの日>が来た。

家事の合間の休憩時間に(*9)、奥さんが淳子に告げた。

「出かけるよ、着替えなさい」

この家に来てから仕事ばかりをさせられ、自由に外出はできなかった。近くの大崎八幡宮での初詣に、奥さんたちと一緒に行くときくらいだった。そのときだって、奥さんに「あんたは使用人だよ」と釘を刺され、奥さんの子どもたちが出店で買い物をしているのを見ているだけだった。

「どこに行くのだろう」

淳子は不思議に思ったが「はい」と答え、花柄のワンピースに着替え、真っ赤なビニール靴を履いた。ワンピースと赤い靴は、与えられた唯一のものだった(*10)。

淳子は奥さんに連れられて車に乗った。幼稚園生の末娘もついてきた(*11)。

20分くらい走り(*12)、車は愛宕橋(*13)にさしかかった。仙台駅の南にある広瀬川(*14)にかかる橋だ。どこに連れていかれるのか、まったく見当がつかない。車窓から見えた当時の風景は淳子の記憶には残っていない(*15)。

愛宕橋を渡ったところで、車を降りた。橋のたもとに木製のベンチがあった。奥さんは淳子に座るようにいった。3人が並んで座った。奥さんはおにぎりを差し出した。淳子はおにぎりをほおばった。

近くには雑木林があった。その雑木林に囲まれるように(*16)、平屋(*17)の建物が立っていた。

おにぎりを食べ終わると、淳子はその建物に連れていかれ、奥さんから中に入るよう促された(*18)。平屋の建物には「診療所」の看板が出ている(*19)。

中に入った。すると驚いたことに、そこには実家にいるはずの父親がいた。父親に会うのは3年ぶりだった。奥さんは父親に淳子を引き渡すと末娘を連れて帰っていった(*20)。

「私、どこか身体が悪いのかな」

だが淳子は風邪をひいているわけでもなければ、身体に痛みを感じているわけでもない。

目を覚ますと、ベッドの上にいた。麻酔をされたのか、「診療所」の中に入ってからの記憶はほとんどない(*21)。とにかく、喉が渇いている。室内には洗面台があったので水道水を飲もうとしたら、女性の看護師に「水は飲んだらだめ」と叱られた(*22)。

父と診療所を出た。奥さんも、一緒にきた末娘もいない。父は「実家に帰ろう」という。淳子は仙石線の電車(*23)とバスを乗り継ぎ、故郷に戻った。

実家に帰って間も無く、淳子を腹痛が襲う。床を転げ回り、夜は痛みで目が覚めた。

「あの診療所で何をされたのか」

この痛みは診療所でされたことが関係あるに違いない。淳子は疑念を深めていった(*24)。

ある日、淳子は父と母が小声で話しているのを聞いてしまう。

飯塚淳子は本名ではなく、彼女が以前から使っている仮名だ。子どものころ、優しくされた先生の名だ。強制不妊手術を受けた過去を語るとき、その仮名を使う。嫌がらせを受けた苦い体験があるからだ。

淳子の半生を縦糸に、国家が仕掛けた強制不妊手術の実態を明らかにしていきます。

連載レポート「強制不妊」を始めます。

(敬称略)

=つづく

もし、あなたが知らない間に子どもを産めない身体にさせられたら、どうしますか?

日本国憲法が施行された翌年の1948年にできた優生保護法で多くの人たちが強制不妊手術の犠牲になりました。対象とされたのは「精神分裂病」や「精神薄弱」「てんかん」など、遺伝性とされた疾患や障害を持つ人たちでした。その人たちは法制定の段階で「劣悪者」と呼ばれました。厚生省公衆衛生局通知(1949年10月24日付)では「やむを得ない限度において身体の拘束、麻酔薬の施用又は欺罔(ぎもう)等の手段を用いることも許される」とされました。つまり本人が嫌がって手術ができない場合は、身体の拘束や麻酔の使用だけでなく、だまして手術してもいいとされたのでした。

強制不妊手術の犠牲者は、統計に残るだけで1万6518人になります。

特集「強制不妊」の取材を継続するため、クラウドファンディングを始めました。ワセダクロニクルは記事に課金はしません。誰でも無料で読めるようにしています。私たちのジャーナリズム活動はみなさんの寄付で支えられています。隠された事実を掘り起こしていくため、ご支援の方、よろしくお願いします。

特集「強制不妊」の記事一覧はこちらです。

Copyright (C) Waseda Chronicle, All Rights Reserved.

ーーーーーーー

ワセダクロニクル(渡辺周編集長)は非営利・独立のニュース組織で、68カ国155団体が加盟する世界探査ジャーナリズムネットワーク(GIJN: Global Investigative Journalism Network) の正式メンバーです。市民が支えるニュース組織を目指します。ワセダクロニクルの探査ジャーナリズムの活動におけるすべての責任および権利は編集長に帰属します。

◆お問い合わせ先

contact@wijp.org (ワセダクロニクル運営事務局)

ワセダクロニクルへのお問い合わせはメールでお願いします。

[脚注]

*1 飯塚淳子への取材、2017年8月30日午後2時30分から、仙台市内で。

*2 飯塚淳子への取材、2017年6月22日午後2時から、仙台市内で。

*3 東京オリンピック 1959年5月26日に西ドイツ(現在のドイツ)のミュンヘンで行なわれた第56次IOC総会で開催が決定した。大会は1964年10月10日から同24日までの15日間開催。出典:日本オリンピック委員会ウェブページ(2017年10月19日取得、http://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/)。

*4 河北新報社創刊百周年記念事業委員会『河北新報に見る百年』河北新報社、1997年、109頁。

*5 飯塚淳子への取材、2017年6月22日午後2時から、仙台市内で。 飯塚淳子の住み込み先の家族への取材、2017年12月16日午前9時から、仙台市内で

*6 飯塚淳子への取材、2017年6月22日午後2時から、仙台市内で。

*7 飯塚淳子への取材、2017年6月22日午後2時から、仙台市内で。

*8 時期は1963年の1月~3月頃と推定できる。1963年1月の「相談判定記録票」には、飯塚淳子に対して「優生手術の必要」と記述されている。宮城県は1963年度以降の「優生手術台帳」しか残っていないといい、それらには淳子の記録はない。このため、淳子は1962年度に強制不妊手術を受けたとみられる。出典:宮城県精神薄弱者更生相談所「相談判定記録票」1963年1月11日。

*9 飯塚淳子への取材、2018年2月16日午後5時30分から、仙台市内で。

*10 飯塚淳子への取材、2017年8月30日午後2時30分から、仙台市内で。

*11 飯塚淳子への取材、2018年2月16日午後5時30分から、仙台市内で。移動手段はバスかタクシーだが、明確には記憶していない。

*12 飯塚淳子の当時の住み込み先から診療所までの距離をもとに移動時間を計算した。

*13 愛宕橋 広瀬川にかかる長さ92.87mの橋。当時は橋桁が鉄、基礎部分はコンクリート。片側1車線で、両側に幅1.8mの歩道があった。出典:仙台市道路保全課への取材、2017年10月20日午前11時36分から、電話で。

*14 広瀬川 仙台市のシンボル。仙台市が運営する「広瀬川ホームページ」によると、広瀬川は「全流路が仙台市域内で完結する都市内河川」。出典:「広瀬川ホームページ」ウェブページ(2017年10月19日取得、http://www.hirosegawa-net.com/)。

*15  飯塚淳子への取材、2017年10月18日午後5時30分から、仙台市内で。

*16 郡山宗英・愛宕神社名誉宮司への取材、2017年9月14日午後3時30分から、仙台市内で。

*17 宮城県土木部建築課「宮城県中央優生保護相談所手術室及準備室改造工事設計図」1964年度。

*18 飯塚淳子への取材、2017年6月22日午後2時から、仙台市内で。

*19 宮城縣史編纂委員会編『宮城縣史 6』宮城縣史刊行会、1960年、606頁。

*20 飯塚淳子への取材、2017年8月30日午後2時30分から、仙台市内で。

*21 飯塚淳子への取材、2017年6月22日午後2時から、仙台市内で。

*22 飯塚淳子への取材、2017年6月22日午後2時から、仙台市内で。

*23 仙台市史編さん委員会編『仙台市史:通史編8 現代1』仙台市、2011年、217頁。

*24 飯塚淳子への取材、2017年6月22日午後2時から、仙台市内で。

シリーズ「強制不妊」一覧へ

  • facebook
  • twitter
  • はてなブックマーク

探査ジャーナリズム 特集記事一覧